さっきテレビを見ていたら、ネットにはまり虚構と現実の区別ができない人が
増えてきているという内容をやっていた。
ネットは匿名で無差別に人を簡単に攻撃出来るので
現実社会でうまく行かなくなった人が居心地がよくなってしまい
生身の人間である他人を感じなくなってしまう。
僕も最近はmtg以外は引きこもりがちなので
確かにネットは簡単に人とつながっている感を味わえるので
心地よいのもわかるなって思う。
しかしこれはあくまで自分が楽しむ道具の一つでないと
まずいと思う。
僕たちが生きる方向は現実であり生の人間関係である。
それはmtgやステップや伝統、セミナーなど自助活動にも
同じ事がいえると思う。
この活動も間違った方向に行けば新興宗教となる。
自分たちの世界で満足し社会と敵対し新しいものを築こうとする。
自助活動を道具としてとらえ、アディクションを抱えつつ回復し
どう現実社会で自立して生きていくのか??が目的だ。
道具も間違った使い方をすれば危険な道具になる。
今までの自分は道具を見つけられなかったり
うまく使いこなすことが出来なかった。
自分は、お金に支配されギャンブルや浪費にのめりこんだ。
これからはmtgやステップという道具を道具としてきちんと使い
自分が生きていけるよう努めていきたいし
自分自身も自分を超えた大きな力の道具として
自助グループや家族や社会で役に立つ人間でありたい。
4 件のコメント:
>自助活動を道具としてとらえ、アディク
>ションを抱えつつ回復しどう現実社会で
>自立して生きていくのか??が目的だ。
いや~これは、身にしみる言葉ですね。
共依存の人間は、支配欲強いですから、変な
派閥作りたがりますから、私も気をつけないと。
あきさん
お久しぶりです。
なんか居心地いいんですよね。
自助グループが。
ここが生きる空間だと思ってしまいます。
仲間を助けるなんて正義をふりかざし
気がつけばグループや仲間を支配したり
先行く仲間に依存したり・・・
仲間の話聞いて思ったのは
別に生きていけるなら働かなくても
それはそれでいいのかなって
思いました。しかし
それでもアディクションを止めつつ
自立した生活を社会ですることが
目的でないと知らず知らずに
元の自分から抜け出せない自分に
気づくんですよね。
だいちゃん、実はね、グループでは言わないけどね、自助会は、社会での人間関係を築いていける前に、練習する場所だ、と、私は思っているの。
しかし、通い続ける事には、意味があると、最近思うのは、逆に、通い続けなければ、自分に気がつかない事と、そもそも、自助会がそういう所だ、という事に、気付けないからかな、と思う。
だいちゃん、生きる場所は、やはり、現実にある、そう思う。
ステップと伝統を生かす場所も、最後には、自分の身の回りにあるのだと、そう思う。
「今の自分でいいんだ」
を、共有する場所でもなければ、
「気が合う人、この指とまれ!」
でも、ないことを、私は、自分が、グループを作り、ぶっこわそうとして、今頃気がつきました。
自立、自律。
それは、自由への扉。
だけれど、自立、自立、と、白黒つけすぎるのも、また、おかしい。
自立と、依存、その中間に、きっと答えがある。そんな気がする。
その気持ちを、社会では言うわけにはいかないし、言う人もいない。
そういう意味で、自助会は、大事な所だな、と、最近思います。
以前は、社会=会社と思ってるくらいの人間でした。
なんか、今は、社会とか家族とかいろいろと定義をかんがえるより、もっとざっくばらんに、
いろいろとかかわって、生き残れればな~くらいに考えてます。
僕も、最近暑くて、ひきこもりがちです。
ひきこもりではなく、たてこもりにすると、
もう少し気が楽かもしれないな~と考えたりします。
だいちゃんに刺激されてか、図書館で
香山リカ「ネット王子とケータイ姫」借りちゃいました。
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